2014年6月9日月曜日

春日井 建

かすがい けん 1938-2004

  
大空の斬首ののちの静もりか()ちし日輪がのこすむらさき      

空の美貌を怖れて泣きし幼児期より泡立つ声のしたたるわたし

夜学より帰れば母は天窓の光に濡れて髪洗ひゐつ

童貞のするどき指に房もげば葡萄のみどりしたたるばかり

太陽が欲しくて父を怒らせし日よりむなしきものばかり恋ふ

愛などと言はず抱きあふ原人を好色と呼ばぬ山河のありき

荒蕪地の野に曇天に放たれし血忌の朝のけものかわれは

火祭りの輪を抜けきたる青年は霊を吐き出しか死顔をもてり

弟に奪はれまいと母の乳房をふたつ持ちしとき自我は生れき

いらいらとふる雪かぶり白髪となれば久遠(くおん)に子を生むなかれ

青嵐過ぎたり誰も知るなけむひとりの維新といふもあるべく         

爾後父は雪嶺の雪つひにして語りあふべき時を失ふ

ただよへる雲に応へて石ながら男の腹部照り翳りゐつ
  
うちつけに大運河ふりむけば小運河黒き喪の舟はわれを誘ふ
  
男とや沈めとや水圏に棲むものの冷たかりける皮膚の誘へる
 
仰向けの額に晩夏の陽は注ぎ微笑まむ若年といふは過ぎきと 

死ぬために命は生るる大洋の古代微笑のごときさざなみ

まひるまに夢見る者は危しと砂巻きて吹く風の中に佇つ
  
一歩一歩空の梯子をのぼりゆく堕ちなむ距離を拡げむとして
  
夏嵐すぎし暁ひろげ読むギリシャの古詩の尾根晴れわたる

今に今を重ぬるほかの生を知らず今わが視野の潮しろがね        

月の光受けてきらめきゐたりけり可視なる精神のごとき粗塩

〈悲しみといふ軍隊に張りあふな〉ペルシャの古詩の今に寒きを
  
マーラーの第五番第四楽章のアダージェット 月は全円を影となしたり  

死などなにほどのこともなし新秋の正装をして夕餐につく

いづこにて死すとも客死カプチーノとシャンパンの日々過ぎて帰らな

またの日といふはあらずもきさらぎは塩ふるほどの光を撒きて

桜桃の一顆一顆はかなしみを措きてほのぼのと自照してゐつ

わが自壊せむとし危ふさしあたり稚き鮎のあをき(わた)食む

うすやみの部屋をよぎるは鮫ならずや明りを点けむとして点けずゐる

朔の月の繊きひかりが届けくる書けざるものなどなしといふ檄

すれちがふアジアンの肌理細かくてわれも愛するその雨の肌

真実にてあればなべては平らけし白さるすべり咲く程のこと

今年また見しといふ程の花ならずさるすべりの白群がりて咲く

鴨のゐる春の水際へ風にさへつまづく母をともなひて行く

こののちの母にいちばん若きけふ宴の席に微笑みてゐる

雪を得て街はあかるむ昨日(きぞ)敷きししろたへに積むけふのしろたへ

海境の青の潮を見てあればあしたのわれや(とこ)をぐななる           

椅子に()る老人が父たりしこと思ひ出づかの夜の地下鉄

しづけさの涯には音があるといふ一日を椅子に掛けてゐる母

うなだれゐし薔薇(さうび)二輪を水切りしいくばくもなく逝きたり母は

てのひらに常に握りてゐし雪が溶け去りしごと母を失ふ            
  
熄むといふ一語をおもふ火の息ののちのしじまに母は横たふ

泣き疲れし冬のわらべと(まう)すべく母を失くせし通夜の座にゐる
  
告げ足りぬ言ひ足りぬこと羽閉ぢて冬の孔雀がうづくまりゐる       

病むにさへ幸不幸ある劣化ウランにガンとなりたる少年もゐて    
     
滴下する薬はハムレットの父王の鼓膜濡らせしと思ひつつ差す
  
のどは(あば)ける()とぞ嚥下できかぬる一句が夜のしじまをふかむ *ロマ書
 
宇宙食と思はば管より運ばるる飲食(おんじき)もまた愉しからずや
  
神託はつひに降れり 日に三たび麻薬をのみて痛みを払へ
  
神を試してタンタロスは飢餓を得しといふ神知らぬわれにも何かが迫る 

舌の根はもはや渇けりわれは神を知らぬ持たぬと呟きしゆゑ

打ち寄せる波の白扇見てあれば礼節を知れといふ声はして           
 
噴泉のしぶきをくぐり翔ぶつばめ男がむせび泣くこともある
            
あとさきと言へ限りあるいのちにて秋分の日の日裏日表
  
片照りて片翳る原いちやうに葦は枯れたるままに直立つ
  
弱冠とふ冠われにありしころ晴ればれと読みしかの対話篇

ヴェネッチア、仮面(マスカ)行列(レード)が行く阜頭金の灯白金の灯は列なりて  (絶筆)


0 件のコメント:

コメントを投稿