2014年7月13日日曜日

伊藤一彦

いとうかずひこ  1943-

鶴の首夕焼けておりどこよりもさびしきものと来し動物園

おとうとよ忘るるなかれ天翔ける鳥たちおもき内臓もつを

動物園に行くたび思い深まれる鶴は怒りているにあらずや

月光をはかなくしたり午後十時過ぎし金木犀の花の香

輪廻とはいかなることや灯を消ししのち一家にて聴く青葉木菟

あたたかき雨を濡らせる郁子(むべ)の花この子の恋にまだいとまある 

猫の墓つくりしのみにわが家の命ふかくぞなりしと思ふ

青梅を籠さげて待つおさなごよわが亡きのちに(なれ)は死すべき

長きながき吐息のごとくきこえくる夜のあり寒の日向灘の潮

眼のくらむまでの炎昼あゆみきて火を放ちたき廃船に遭ふ

啄木をころしし東京いまもなほヘリオトロープの花よりくらき

過ぎにしを言ふな思ふな凧高くうちあがりゆく今が永遠

透きとほる水をかさねて青となる不思議のごとき牧水愛す

緘黙(だんまり)の少年とゐて見上げたり空いつにても処女地と思ふ

東京に捨てて来にけるわが傘は捨て続けをらむ大東京を

緑濃き曼珠沙華の葉に屈まりてどこにも往かぬ人も旅人

「正しきことばかり行ふは正しいか」少年問ふに真向ひてゐつ

おぼれゐる月光見に来つ海号とひそかに名づけゐる自転車に

われを知るもののごと吹く秋風よ来来(らいらい)世世(せせ)はわれも風なり

南国ゆ来たる男の頬打ちて愉しむ雪よ待ちくれたりや

秀吟の生れざらめやも妻娘母の十なる胸乳(むなち)あるわが家

われはなぜわれに生れたる 中年の男の問ふは滑稽ならむ




斉藤茂吉

さいとうもきち 1882-1953

「白き山」(昭和二十四年)より

蔵王より(さか)りてくれば平らけき国の真中(もなか)に雪の降る見ゆ 
    
ふかぶかと降りつもりたる雪原に杉木立あるは寂しきものぞ

杉の木に杉風おこり松の木に松風が吹くこの庭あはれ

かすかなる出で入る息をたのしみて(ふし)()にけふも暮れむとぞする

雪ふぶく頃より臥してゐたりけり気にかかる事も皆あきらめて

うぐひすはかなしき鳥か梅の樹に来啼ける声を聞けど飽かなく

幻のごとくに病みてありふればここの夜空を(かり)がかへりゆく

もろごゑに鳴ける蛙を夜もすがら聞きつつ病の癒えむ日近し

鉛いろになりしゆふべの最上川こころ静かに見ゆるものかも

夕映のくれなゐの雲とほ長く鳥海山の奥にきはまれり

彼岸(かのきし)に何をもとむるよひ闇の最上川のうへのひとつ蛍は

かの空にたたまれる(よる)の雲ありて(とほ)いなづまに紅くかがやく

蛍火をひとつ見いでて()()りしがいざ帰りなむ老の臥処(ふしど)

しづかなる曇りのおくに雪のこる鳥海山の(また)けきが見ゆ

近よりてわれは()()らむ白玉の牡丹の花のその自在(じざい)(しん)

ながらへてあれば涙のいづるまで最上の川の春ををしまむ

逝く春の朝靄こむる最上川岸べの道を少し歩めり

いきどほる心われより無くなりて()けむとぞする(やまひ)(とこ)

ほがらかに聞こゆるものか夜をこめて二つあひ呼ばふ梟のこゑ

白牡丹つぎつぎひらきにほひしが最後の花がけふ過ぎむとす

ひむがしゆうねりてぞ来る最上川見おろす山に眠りもよほす

庭の上に柏の太樹(ふとき)かたむきて立てるを見れば過ぎし代おもほゆ

山鳩がわがまぢかくに啼くときに午餉(ひるげ)を食はむ湯を乞ひにけり

ひとり居る和尚不在の寺に入り「寿山聳(じゆざんそびゆ)」の(へん)を見にけり

黒滝の山にのぼりて見はるかす最上川の行方(ゆくへ)こほしくもあるか

くろぐろとしたる木立にかこまるる小峡(をかひ)の空は(さや)にこそ澄め

かぎりなく(みの)らむとする田のあひの秋の光にわれは歩める

われひとり憩ひてゐたる松山に松蝉鳴きていまだ暑しも

つくづくと病に臥せば山のべの躑躅の花も見ずて過ぎにき

秋の日は対岸(たいがん)の山に落ちゆきて一日(ひとひ)ははやし日月(ひつき)ははやし

蕎麦の花咲きそろひたる畑あれば蕎麦を食はむと思ふさびしさ

最上川に手を(ひた)せれば魚の子が寄りくるかなや手に触るるまで

あまつ日のかたむく頃の最上川わたつみの色になりてながるる

この原にわれの居りたるゆふまぐれ鳥海山は晴れて(また)けし

最上川のなぎさに居れば対岸(かのきし)の虫の声きこゆかなしきまでに

病より癒えて(きた)れば最上川狭霧のふかきころとなりつも

岩の間にかぐろき海が見えをれば岩をこえたる浪しぶき散る

わたつみは凪ぎたるらむか夜をこめていでゆく船のその音きこゆ

旅人もここに飲むべくさやけくも磯山かげにいづる水あり

外光にいでてし来れば一山(ひとやま)を吹き過ぎし風もわれに寂しゑ
やうやくに色づかむとする秋山の谷あひ占めて白き茅原(かやはら)

われひとりきのふのごとく今日もゐてつひに寂しきくれぐれの山

ここに立ち夕ぐるるまでながめたる最上川のみづ平明(へいめい)にして

たひらなる命生きむとこひねがひ朝まだきより山こゆるなり

山の木々さわだつとおもひしばかりにしぐれの雨は(かひ)こえて来つ

(かひ)(そら)片よりに蒼く晴れをりて吹きしまく時雨の音ぞ聞こゆる

この鮎はわれに食はれぬ小国川の蒼ぎる水に大きくなりて

最上川の支流は山にうちひびきゆふぐれむとする時にわが居つ

浅山に入りつつ心しづまりぬ楢のもみぢもくれなゐにして

こもごもに心のみだれやまなくに葉広がしはのもみぢするころ

しぐれの雨うつろふなべに吾をめぐる山うつくしくなりて来にけり

しづかなる亡ぶるものの心にてひぐらし一つみじかく鳴けり

おほどかに流れの見ゆるのみにして月の照りたる冬最上川

ひむがしに霧はうごくと見しばかりに最上川に降る朝しぐれの雨

いただきに黄金のごとき光もちて鳥海の山ゆふぐれむとす

たけ高き紫苑の花の一むらに時雨の雨は降りそそぎけり

かりがねも既にわたらずあまの原かぎりも知らに雪ふりみだる

最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも


2014年7月6日日曜日

加藤治郎

かとうじろう 1959-



だしぬけにぼくが抱いても雨が降りはじめたときの顔をしている

荷車に春のたまねぎ弾みつつ アメリカを見たいって感じの目だね

鋭い声にすこし驚く きみが上になるとき風にもまれゆく楡

もうゆりの花びんをもとにもどしてるあんな表情を見せたくせに

ぼくたちは勝手に育ったさ 制服にセメントの粉すりつけながら

ひとしきりノルウェーの樹の香りあれベッドに足を垂れて ぼくたち

とけかけの氷を右にまわしたりしずめたりまた夏が来ている

にぎやかに釜飯の鶏ゑゑゑゑゑゑゑゑゑひどい戦争だった

ぼくんちに言語警察がやってくるポンポンダリアって言ったばっかりに

定型は手のつけられぬ幼帝だ擬似男根をこすりつけてる

ぼくたちの詩にふさわしい嘔吐あれ指でおさえる闇のみつばち

だからもしどこにもどれば こんなにも氷をとおりぬけた月光

まりあまりあ明日あめがふるどんなあめでも 窓に額をあてていようよ

黒パンをへこませているゆびさきの静かな午後よ さいごのちゅうちょ

れれ ろろろ れれ ろろろ 魂なんか鳩にくれちゃえ れれ ろろろ

歯にあたるペコちゃんキャンデーからころとピアノの上でしようじゃないか

海から風が吹いてこないかどこからかふいてこないかメールを待ってる

抽斗だけがやさしい夜明け十年もまえってうすい手紙のようさ





荻原裕幸

おぎわら ひろゆき 1962-


政治がまた知らないうちにみづいろに傾いてぼくの世界を齧る

▼▼▼▼▼ココガ戦場?▼▼▼▼▼抗議シテヤル▼▼▼▼▼BOMB!

恋人と棲むよろこびもかなしみもぽぽぽぽぽぽとしか思はれず

春の日はぶたぶたこぶたわれは今ぶたぶたこぶた睡るしかない

天王星に買つた避暑地のあさがほに夏が来たのを報せておかう

ほらあれさ何て言ふのか晴朗なあれだよパイナップルの彼方の

はつなつのあをを含んで真夜中のすかいらーくにゐる生活を

三越のライオンに手を触れるひとりふたりさんにん、何の力だ

ぼくはいま、以下につらなる鮮明な述語なくしてたつ夜の虹

ぎんいろの缶からきんの水あふれ光くるくるまはる、以下略

戦争が(どの戦争が?)終つたら紫陽花を見にゆくつもりです

しみじみとわれの孤独を照らしをり札幌麦酒のこの一つ星

顎つよき愛犬を街にときはなつ銀色の秋くはえてかへれ

伝言板のこの寂しさはどんな奴「千年タツタラドコカデ逢ハウ」

母か堕胎か決めかねてゐる恋人の火星の雪のやうな顔つき

(結婚+ナルシシズム)の解答を出されて犀の一日である

月曜日の朝かへりきてノブのQOQOQQOQQOQ

間違へてみどりに塗つたしまうまが夏のすべてを支配してゐる




穂村 弘

 ほむら ひろし 1962-



体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ

「キバ」「キバ」とふたり八重歯をむき出せば花降りかかる髪に背中に

「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」

ねむりながら笑うおまえの好物は天使のちんこみたいなマカロニ

ハーブティーにハーブ煮えつつ春の夜の嘘つきはドラえもんのはじまり

サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい

歯を磨きながら死にたい 真冬ガソリンスタンドの床に降る星

終バスにふたりは眠る紫の<降りますランプ>に取り囲まれて

はんだごてまにあとなった恋人のくちにおしこむ春の野いちご

杵のひかり臼のひかり餅のひかり湯気のひかり兎のひかり

目覚めたら息まっしろで、これはもう、ほんかくてきよ、ほんかくてき

恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の死

このばかのかわりにあたしがあやまりますって叫んだ森の動物会議

ハロー 夜。ハロー 静かな霜柱。ハロー カップヌードルの海老たち。

おやすみ、ほむほむ。LOVE(いままみの中にあるそういう優しいちからの全て)。

めずらしい血液型の恋人が戦場に行っ。て。し。ま。っ。た。悪。夢。  

窓のひとつにまたがればきらきらとすべてをゆるす手紙になった

夢の中では、光ることと喋ることはおなじこと。お会いしましょう



2014年6月29日日曜日

五島美代子

ごとうみよこ 1898年-1978年



夕潮のみちくるなべにわがこころほとほとたへず君を欲りする

我ならぬ生命の音をわが体内(みぬち)にききつつこころさびしむものを

子を持てばこころ貪欲にあり経つつ(つい)に澄むなき(おの)一生(ひとよ)

胎動のおほにしづけきあしたかな吾子の思ひもやすけかるらし

あぶないものばかり持ちたがる子の手から次次にものをとり上げてふつと寂し

いひたいことにつき当つて未だ知らない言葉吾子はせつなく母の目を見る

重態を悟らせじと作りしゑがほがそのまま脱げぬ面となりしか

()が子らを養ふと人の子を(ほふ)りし鬼子母神のこころ時にわが持つ

あけて待つ子の口のなかやはらかし粥運ぶわが匙に触れつつ

あらはなるわが民族の田植のさま手にとる如く空より見られつ

力いつぱい生ききりて吾の枯るるときおのづから子に移るものあらむ

われ一人やしなひましし母の乳焼かるる日まで(ほの)に赤かりき

昨日ありえしこと今日もありと疑はず誇りかにゐるを老醜といふ

戦争中より明らかに眼ひらきゐしといふ人らと異なり凡愚のわれは

けものめく匂ひをたつる時ありて娘が長き髪梳くはなやまし

ある日より魂わかれなむと母と()の道ひそひそと見えくる(ごと)

この向きにて初におかれしみどり児の日もかくのごと子は物言はざりし

花に埋もるる子が死顔の冷めたさを一生たもちて生きなむ吾か

棺の釘打つ音いたきを人はいふ泣きまどゐて吾はきこえざりき

吾に来し一つの生命まもりあへず空にかへしぬ許さるべしや

うつそ身は母たるべくも()れ来しををとめながらに逝かしめにけり

あやまちて光りこぼしし水かとも子をおもふとき更にあわてぬ

いたましき顔しませりと見てあれば夫も同じことをわがかほにいふ

わが(たい)にはぐくみし日の組織などこの骨片に残らざるべし

亡き子来て袖ひるがえしこぐとおもふ月白き夜の庭のブランコ

松うごく風見てあればまさやかにそこに生けりと吾子を思へり

目さむればいのちありけり露ふふむ朝山ざくら(ぬか)にふれゐて

白百合の花びら蒼み昏れゆけば拾ひ残せし骨ある如し

ふさはしきそらなり()(ごと)へやに立て娘が生きてゐし冬の日ありき

眠りつづけ眠り足らひて起きくればきよとんと春の日のをとめなり

われらに代わりこの娘の一生(ひとよ)負ひゆかむ人にあへなく傾くこころ

親などは捨てゆくばかり幸せになれよと念じ今日までは来し

月も星も()まなまと面さらしゆく世となりて解けず男をんなのこと

つひにあひえし一人のひとと子があればわれは卵のからの心地す

厨ごと一生(ひとよ)のわざとうべなひて嫁かむとす(つばさ)をさめし吾子は

子をうみしおぼえある身にひびき来て吾子のみごもりいや深むころ

桃太郎もかぐや姫もかく生ひ立ちけむ翁媼(おきなおうな)の子育ての日日

かぎりなく愛しきものと別れ棲み老いすさまじくきく風の音

三歳(みつ)()さへまことのことを言ひしぶり(さと)きひとみに人を疑ふ

愛執の鬼ともならず静かなる老にも入らず日日の孫恋ひ

おばあちやまはほどけてゐるといはれたり まことほどけてこの子と遊べる



2014年6月22日日曜日

土屋文明

 つちや ぶんめい(1890-1991


 (ほそ)より尾根を横行き冬野の道教へし娘を上村老人覚えてゐる
       
知事筆を揮ひて家持の歌碑を立てり泥を飛ばしてトラック往反す

富の小川佐保川に合ふところみゆ二川(ふたかは)静かに霧の中に合ふ

立ちかへり立ちかへりつつ恋ふれども見はてぬ大和大和しこほし

老あはれ若きもあはれあはれあはれ言葉のみこそ残りたりけれ

富の小川佐保川に合ふところみゆ二川(ふたかは)静かに霧の中に合ふ

年々に若葉にあそぶ日のありてその年々の藤なみの花

(もち)の夜の月はいでむと水の音の静けき山の下をてらしぬ          
ゆふがほの葉下(はした)にのびて覚束(おぼつか)な豆の花には露のしたたる

貧と窮と分ち読むべく悟り得しも乏(とも)しき我が一生(ひとよ)なりしため

消極に消極になるを貧の慣(なら)はしと卑しみながら命すぎむとす

人を悪(にく)み人をしりぞけし来(こ)し方もおぼろになればまぬがるるらむ

ふらふらと出でて来りし一生(ひとよ)にてふらふらと帰りたくなることあり

生みし母もはぐくみし伯母も賢からず我が一生(ひとよ)恋ふる愚かな二人

母に打たるる幼き我を抱へ逃げし祖母も賢きにはあらざりき

乳足らぬ母に生れて祖母の作る糊に育ちき乏しおろかし

寺を出でて冬の日しづかに歩みゆく妬(ねた)みも無けむ生きてゐることは

テグスに代るナイロンも上等は惜しむといふ茜さす夕凪の海に向ひて

葵藿(きかく)の葵(あふひ)ははたしてフユアフヒなりや否や苗を収めて来む春に見む  

葵藿の葵をヒマハリとする博士等がまだ絶えないのも仕方がない

船ゆかずなりたる水は竪川も横川もなべて浮く木の溜め場

この河岸に力つくしてあげし飼料或る時は藁在る時は甘藷澱粉糟(かす)

木綿織らずなりし真岡の町出でて田圃道には箕直しが歩いてゐる

過ぎし人々いかにか山の湖に上り来し別して明治四十二年左千夫先生 

下り立ちて川見る時に嫗(おうな)来て橋の上よりごみを投げ込む

時雨来む七尾の海に能登島に乗らむ船待つ牛乳を飲みて

原爆をまぬがれし与茂平亡きことも赤電話して知る関係なき菓子店に

敷物も代へたのにゴキブリは不思議不思議子等は言へどもまこと出ありく 

背のはげし本の膠はゴキブリの好き餌といへど防ぐ術なし

寝台古りわらやはらかに馴れたればここを城とし籠るゴキブリ

置く毒に中り死にたるゴキブリか後を頼むとわが枕がみ

眠る前の面に来りて散歩するゴキブリを憎む無告の被害者

何の為にゴキブリ我がまはりにはびこるか背のはげ並ぶ本を見るかな

本郷新花町七十年前貸二階に我を攻めしは小形のゴキブリ

食をつめる如き明け暮れの幾月か我とゴキブリ残し世帯主は夜逃

蚊が来なくなりしと思へばゴキブリか吝()しみつづける暖房のため




2014年6月9日月曜日

春日井 建

かすがい けん 1938-2004

  
大空の斬首ののちの静もりか()ちし日輪がのこすむらさき      

空の美貌を怖れて泣きし幼児期より泡立つ声のしたたるわたし

夜学より帰れば母は天窓の光に濡れて髪洗ひゐつ

童貞のするどき指に房もげば葡萄のみどりしたたるばかり

太陽が欲しくて父を怒らせし日よりむなしきものばかり恋ふ

愛などと言はず抱きあふ原人を好色と呼ばぬ山河のありき

荒蕪地の野に曇天に放たれし血忌の朝のけものかわれは

火祭りの輪を抜けきたる青年は霊を吐き出しか死顔をもてり

弟に奪はれまいと母の乳房をふたつ持ちしとき自我は生れき

いらいらとふる雪かぶり白髪となれば久遠(くおん)に子を生むなかれ

青嵐過ぎたり誰も知るなけむひとりの維新といふもあるべく         

爾後父は雪嶺の雪つひにして語りあふべき時を失ふ

ただよへる雲に応へて石ながら男の腹部照り翳りゐつ
  
うちつけに大運河ふりむけば小運河黒き喪の舟はわれを誘ふ
  
男とや沈めとや水圏に棲むものの冷たかりける皮膚の誘へる
 
仰向けの額に晩夏の陽は注ぎ微笑まむ若年といふは過ぎきと 

死ぬために命は生るる大洋の古代微笑のごときさざなみ

まひるまに夢見る者は危しと砂巻きて吹く風の中に佇つ
  
一歩一歩空の梯子をのぼりゆく堕ちなむ距離を拡げむとして
  
夏嵐すぎし暁ひろげ読むギリシャの古詩の尾根晴れわたる

今に今を重ぬるほかの生を知らず今わが視野の潮しろがね        

月の光受けてきらめきゐたりけり可視なる精神のごとき粗塩

〈悲しみといふ軍隊に張りあふな〉ペルシャの古詩の今に寒きを
  
マーラーの第五番第四楽章のアダージェット 月は全円を影となしたり  

死などなにほどのこともなし新秋の正装をして夕餐につく

いづこにて死すとも客死カプチーノとシャンパンの日々過ぎて帰らな

またの日といふはあらずもきさらぎは塩ふるほどの光を撒きて

桜桃の一顆一顆はかなしみを措きてほのぼのと自照してゐつ

わが自壊せむとし危ふさしあたり稚き鮎のあをき(わた)食む

うすやみの部屋をよぎるは鮫ならずや明りを点けむとして点けずゐる

朔の月の繊きひかりが届けくる書けざるものなどなしといふ檄

すれちがふアジアンの肌理細かくてわれも愛するその雨の肌

真実にてあればなべては平らけし白さるすべり咲く程のこと

今年また見しといふ程の花ならずさるすべりの白群がりて咲く

鴨のゐる春の水際へ風にさへつまづく母をともなひて行く

こののちの母にいちばん若きけふ宴の席に微笑みてゐる

雪を得て街はあかるむ昨日(きぞ)敷きししろたへに積むけふのしろたへ

海境の青の潮を見てあればあしたのわれや(とこ)をぐななる           

椅子に()る老人が父たりしこと思ひ出づかの夜の地下鉄

しづけさの涯には音があるといふ一日を椅子に掛けてゐる母

うなだれゐし薔薇(さうび)二輪を水切りしいくばくもなく逝きたり母は

てのひらに常に握りてゐし雪が溶け去りしごと母を失ふ            
  
熄むといふ一語をおもふ火の息ののちのしじまに母は横たふ

泣き疲れし冬のわらべと(まう)すべく母を失くせし通夜の座にゐる
  
告げ足りぬ言ひ足りぬこと羽閉ぢて冬の孔雀がうづくまりゐる       

病むにさへ幸不幸ある劣化ウランにガンとなりたる少年もゐて    
     
滴下する薬はハムレットの父王の鼓膜濡らせしと思ひつつ差す
  
のどは(あば)ける()とぞ嚥下できかぬる一句が夜のしじまをふかむ *ロマ書
 
宇宙食と思はば管より運ばるる飲食(おんじき)もまた愉しからずや
  
神託はつひに降れり 日に三たび麻薬をのみて痛みを払へ
  
神を試してタンタロスは飢餓を得しといふ神知らぬわれにも何かが迫る 

舌の根はもはや渇けりわれは神を知らぬ持たぬと呟きしゆゑ

打ち寄せる波の白扇見てあれば礼節を知れといふ声はして           
 
噴泉のしぶきをくぐり翔ぶつばめ男がむせび泣くこともある
            
あとさきと言へ限りあるいのちにて秋分の日の日裏日表
  
片照りて片翳る原いちやうに葦は枯れたるままに直立つ
  
弱冠とふ冠われにありしころ晴ればれと読みしかの対話篇

ヴェネッチア、仮面(マスカ)行列(レード)が行く阜頭金の灯白金の灯は列なりて  (絶筆)